フルメタル・ジャケット
 
夏も終ったというのに、少し話題がさかのぼります。夏の全国高校野球大会が駒大苫小牧の優勝で幕を閉じました。しかし実際は幕を閉じたというよりは、そこから体罰問題で幕が開けたわけですが。

だいたいが今の社会が体罰という言葉に過敏すぎると思います。いや、何もそんくらい当たり前だとかそいうことを言いたいのではありません。過敏と言ったのは周りが過敏だということです。それは学校も然りです。実際は20発殴ったところを2、3発にしておいてくれだとか、大会終了後まで黙っておいてくれだとか、そんなばかばかしいことにばかり過敏だということが言いたいわけです。そりゃもう過敏になる気持ちはわかりますが、その前にぶん殴らなけりゃいいだけの話じゃないですか。

旧態依然とした体育会系の仕打ちや慣習を放っておきながら、事を荒立てたくないなどと都合のいいことばっかり考えているから過敏になるのです。東名高速を150キロでかっ飛ばすけど捕まりたくないとか、スロット行きたいけど負けたくないとか、そんな筋の通らない話を通そうとするからややこしくなるんですよ。150キロでかっ飛ばしたら免停になればいいわけで、スロット行ったらスロ屋に貯金すればいいわけで、無理を通そうとしなければいいだけの話です。

人を殴ったら普通は傷害罪で捕まってしまうわけです。何故なら人を殴ってはいけないからです。どうしてこんな簡単なことがわからないんでしょうか。やっていいこととまずいことは誰だってわかっていることです。殴った教師にひとつ質問がしたいですね。「あなた人前でうんこできますか」と。人を殴るのと人前でうんこするのは一緒じゃないですか。どう考えてもやってはまずいことです。しかしうんこはしないが人は殴る。しかも人前でうんこしたことは内密にしてくれなどと、全く意味の通じないことではありませんか。

そもそも体罰なんて日本語からしておかしいですね。あれはあきらかに傷害罪です。傷害を正当化するためにわざわざ体罰なんて呼んでいるということに他なりません。万引きは窃盗ですし、姥捨て山は死体遺棄です。言葉で帳尻りなんて合わないんです。ワイドショーなんかでは見識者が集まって体罰が必要だの必要でないだのと、まるでわかったようなばかばかしい議論を展開していましたが、必要でないものは体罰という言葉そのものです。見識者までがそんな言葉に惑わされて本質を見失っているわけです。

もしここがアメリカであれば間違いなく裁判沙汰になっています。なにも裁判起こせばいいってわけじゃないですけどね。それくらいの大問題だってことを認識して欲しいものです。叩いていいのは私の酒の肴を盗んだネコくらいのもんです。
 
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